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東京地方裁判所 昭和48年(ヨ)2321号 判決 1974年5月27日

申請人 築舘照夫

右訴訟代理人弁護士 菊池紘

門屋征郎

小見山繁

被申請人 東京印刷紙器株式会社

右代表者代表取締役 中峰弘

右訴訟代理人弁護士 馬場東作

福井忠孝

佐藤博史

主文

本件仮処分申請を却下する。

訴訟費用は申請人の負担とする。

事実

第一当事者双方の求める裁判

一  申請人

1  被申請人は申請人に対し昭和四七年七月以降本案判決確定に至るまで毎月二五日限り金八万七六三五円を支払え。

2  申請費用は被申請人の負担とする。

二  被申請人

主文同旨の判決

≪以下事実省略≫

理由

一  雇傭の成立と解雇の意思表示

被申請人が昭和四四年一〇月に申請人を雇傭したこと、被申請人が昭和四七年六月八日に申請人に対し書面をもって同年七月一四日付の解雇の予告の意思表示を発し、右意思表示が同年六月一〇日に申請人に到達したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  解雇の経緯

1  営業部への配転予定

≪証拠省略≫をあわせると、被申請人はかねてからの懸案であった電気計算機の導入をようやく昭和四六年二月に実現して生産管理の合理化にその役割を大きく期待したが、資料の利用及び社内体制上の問題点から、それほどの効果が上らず再検討をよぎなくされた結果、はやくも同年九月一四日に電算機業務部門廃止の件が役員会で議せられたが、同部門廃止の実施時期については、電算機業界の顧問格であるコンピューターシステム社の飽田常務取締役の実地調査にもとづく意見を徴したうえで最終的に決めること、及び電算機業務部門すなわち柏工場事務課の廃絶に伴う同課従業員村井課長、申請人、田中及び浜崎ら六名の再配置については村井課長を残務調整のため残すにとどめ、申請人は本社営業部へ、田中及び浜崎は同工場生産管理課でそれぞれ資材関係教育及び工場経験を受けたのち前者を本社営業部へ後者を本社経理課へ配転することをそれぞれ内定し、同年一〇月二〇日についに電算機業務部門の廃止を実施して、右配転人事も入院加療中の申請人を除いて全員滞りなくおこなったことが認められる。

申請人については、右のように柏工場事務課から本社営業部へ配転することが内定していたところ、≪証拠省略≫によると、たまたま申請人が同年一〇月三日に柏工場中庭で業務外の球技中の事故により両膝遊離性骨端軟骨炎を患い同月一四日以降欠勤した(このことは当事者間に争いがない。)ことから、右病傷の治療に相当の日数を要し、しかも予後の見透しも立たない情況であったので、申請人の処遇について、被申請人は、せっかく大学卒程度の教養と円満な人柄並びに豊かな社交性及び営業知識等を評価し、営業部強化の適任者としてその配転人事を内定しながら、とりあえず暫定措置として、長期欠勤者に対する従前の取扱例に従い、担当業務の特定を留保して従業員たる身分を示すにとどまる総務部付を命ずることとして同年一〇月二〇日付辞令を出したが、入院加療中のこともあって右辞令を交付しないまま同年一〇月末頃申請人の直属上司村井課長にその辞令内容を口頭で申請人に告げさせたことを認めることができる。

申請人は、被申請人と申請人間の労働契約上申請人の給付すべき労務は柏工場事務課又は同生産管理課の業務に限定されているから、申請人の同意を得ることなくして、右業務と全く異質の本社営業部へ申請人を配転しうるものではないと主張する。いかにも、≪証拠省略≫によると、申請人が富士通電子専門学校において電算機関係の専門知識を修得したこと、被申請人が昭和四四年に電算機導入を決定して専門的技術要員を新聞広告により募集したこと、及び申請人が右募集に応じて昭和四四年一〇月に採用されたことが認められ、また申請人が入社以来柏工場事務課に配置されて電算機業務に従事してきたことは当事者間に争いがない。しかし、後記認定のとおり被申請人は昭和三〇年に設立され、資本金一億円、本社及び二工場(柏市、平塚市)に従業員約二四五名(工員が約七割)を擁して印刷紙器の製造及び販売を専業とする典型的な受注産業会社であるから、右認定の専門的知識の修得及び募集・採用・配置の事実からただちに申請人の給付すべき労務が契約上柏工場事務課又は同生産管理課の業務に限定されたとみるのは当らないし、ほかに申請人主張どおりの雇傭契約上の給付労務の特定を肯認するに足りる証拠はない。申請人の右主張は採用の限りでない。

そうすると、被申請人が業務上の必要性にもとづいてその同意を得ることなくして申請人に対し本社営業部勤務を命じうることは、もとより被申請人の業務指揮権の範囲にぞくする事項であり、したがって当然のことながら、被申請人は申請人に対し本社営業部勤務を命ずることについて正当な利益ないし期待を有するといわなければならない。

2  休職措置

申請人の両膝遊離性骨端軟骨炎による欠勤が昭和四六年一〇月一四日から起算して三か月を超えるに及んで、申請人は昭和四七年一月一四日をもって就業規則上の私傷病休職の規定により同年七月一三日まで六か月間の休職扱いに移行したことは当事者間に争いがない。

3  解雇の予告

≪証拠省略≫を総合すると、次のとおり認めることができる。

申請人は、昭和四六年一〇月三日に柏工場中庭で昼休憩時を利用して皆と野球ゲームに興じていたところ、同日午後零時四五分頃三塁守備について右側にきたボールを逆ハンドで捕えようとしたはずみの動作により両膝部に打撲及び捻転を与えた。これが原因となって同部位に疼痛を覚えるようになり、しばらく柏市内の田中外科医院等に通って治療を受けていたが、同月一二日に右膝部に激痛をきたし、ついに同院の規模をもってはよく治療しうるところに非ずとして、同月一三日に同院の紹介を受けて松戸市立病院で診てもらった結果、右膝関節鼠及び左膝半月板損傷により約六週間の加療を要するとの診断であったので、さっそくそれまでの担当業務を上司村井課長の指示にもとづいて同僚に引継いだうえ同日松戸市立病院に入院した。同院整形外科医師篠原寛休が主治医となって、同月二二日に全身麻酔のうえ両膝関節内から遊離体(二〇ミリ×一〇ミリ×五ミリ大)を摘出する手術を施し、以来安静加療に専念した。治療も順調に経過して昭和四七年一月二四日に柏工場総務課員菅原に対し同年二月一日から出勤する予定である旨を連絡した。申請人の疾病による欠勤が当時すでに三か月半を超える長期であったことから、本社総務部長東義之は申請人の営業部への配転内定にもとづきただちに同年二月一日付営業部勤務を命ずる旨の辞令を用意し、申請人の速かな復職を待っていたところ、右連絡の日から二週間経過しても具体的な連絡ないし来社がないので同年二月七日にその理由を書面で連絡されたい旨を申請人に通知したが、連絡がさらにないまま経過していることに困惑を覚え、同月一一日にかさねて速かに連絡されたい旨を申請人に通知した。申請人は、歩行訓練を兼ねて下田及び水上で温泉療養をしたりして同月一一日に退院し、柏工場長高谷総一郎宅に右退院を連絡し、同月一四日に同工場に出て同工場長から前記総務部付辞令の交付を受けて本社に東総務部長を訪ねたが、休職期間中の退院及び出社ということで復職の手続上診断書の提出が求められたので、同月一六日に篠原主治医の同月一五日付診断書を提出して復職を申し出た。これに対し、東部長は右申出に対する回答を留保したうえ、右診断書の記載事項の「両膝遊離性骨端軟骨炎」及び「関節内遊離体摘出術施行せるも今後更に又遊離体の発生は予測される為過激な労働は不適当である。」というだけでは到底復職の可否を判断しかねたし、とくに「今後更に又遊離体の発生は予測される」という部分についてできるだけ正確な理解を得たいものと考えたので、同日午後五時頃松戸市立病院に篠原主治医を訪れて約一時間半にわたり同医からレ線写真及び図解を示されつつ申請人の病状及び予後の見透しについて「将来とも申請人の両膝の疾患部位は正常にならないであろうし、過激な労働やスポーツはできず、膝を庇うように注意して生活しなければならないから正坐することもできない。」などの説明を受けたが、その際「申請人には決定的なことまでいっていないし、またいえないことがらにぞくする。」旨の同医の補足まであったので、同月一九日に申請人に対して「未だ完全治癒の状態ではなく、正常な勤務には耐えられないものと判断して復職を認めない。」旨の社長中峰弘名義の通知書を出した。その後申請人の同月二一日付東部長あて「医師の診断及び本人の治癒判断により職場復帰は可能であるからここに復職を申請する。」旨の復職届が申請人の同僚田中によって提出されたが、これは復職届として受理するわけにはいかないとして東部長から返送された。同月二四日に東部長が柏工場次長大平とともに篠原主治医を訪れて申請人の疾病部位の屈伸、歩行等の許容及びその程度について、とくに営業部業務の運動性にもとづく具体的設例をもって質問したが、同主治医の回答は、具体的基準を示すことは一切避け、ただ抽象的に「循環性の治癒困難な疾病であるから、屈伸、歩行等は必要最少限度のものでなければならない。」というほかいいようがないとのことであった。そして整形外科学の専門的教科書及び家庭向解説書によって、「関節遊離体の関節面嵌頓が起れば、突然激痛を発して関節運動が抑止され、疼痛のあまり気絶することもある。」との説明にも接した。そこで被申請人は同月二九日に柏工場において役員五名(全員)に高谷柏工場長及び平野平塚工場長を交えて申請人の復職の適否について諮った結果、同年三月一日に申請人に対して「申請人の健康状態が休職期間満了後にいたっても申請人の配転先として内定された営業部の勤務に耐えられないと判断されるから復職を認められないものであり、また強いて復職を認めて勤務させる場合には申請人の健康が害されるばかりでなく、同僚及び顧客に不測の迷惑をかけることが憂慮される。休職期間の満了をまって申請人を解雇する方針を内定した。」旨の通知書を出すにいたった。二月一六日、同月二三日及び三月一日に続いて四月一四日にまたも申請人からの復職申出があったし、さらに申請人の疾病につき従前とはややニュアンスを異にして「疾病軽快過激な重労以外就労可能である。」と記載された篠原主治医の同年四月一八日付診断書が提出されたので、東部長は同年五月一六日に神谷守同部長付を帯同し、高津弁護士立会のもとに右四月一八日付診断書の記載事項について同主治医の説明を受けたところ、右にいう「疾病軽快」とは、精神病と同じように、根治のない循環性の疾病において病状が完快にいたらないが一番よい状態にある場合をさす用語であることが明らかにされたが、さらに同月二〇日に同主治医を訪れて従前の診察所見を総合した鑑定意見書の交付を依嘱したところ、同主治医から同月二六日付意見書が手交されたが、これによれば、関節遊離体の摘出手術所見として「左大腿骨の関節面は遊離体の母床と思われる陥没部がはっきり認められ、その付近の軟骨面はあたかも壁が崩れ落ちるが如く脆弱な様相を呈しており、今後又再発を予測される。」といい、予後に関する見解として「今後強大な外力又は外力の累積により再発は避け得ないものと考えられる。今後予想される遊離体再発はそのつど摘出術を施行する。再発をくりかえして変形性膝関節症へ移行する時期をなるべく老令期にもってゆくように養生に努める。もし高度の変形性膝関節症が招来されてしまった場合には関節固定術なり人工関節なりその時点で最適な治療を行なう。以上の治療計画のもとに昭和四七年二月一六日軽作業より復職可能と診断する。」というのである。また同意見書により申請人が昭和三六年頃右膝外傷後右膝半月板損傷の診断にて北海道赤平市立病院で手術を施されたこと、及びその後時折右膝に発作性の激痛を感ずるようになったことも明らかにされた。かくして被申請人はようやく申請人の両膝遊離性骨端軟骨炎という本件疾病の症状及び予後の見透しに関する理解並びにこれにもとづいて考慮されるべき事項についての認識をある程度把握するにいたった。すなわち、「右疾病に根治はありえない。発症(関節鼠ともいう遊離体の生成)、治療(遊離体の摘出術)、そして軽快がいつまでもくりかえされる(循環性)から、そのつど数か月に及ぶ休業期間が生じてその対策に苦慮しなければならない。再発をくりかえすうちに変形性関節症に移行し、これが高度に進行した場合には人工関節又は関節固定術を施すはめ(完全な身体障害者)になるが、対策としては、安静及び摂生に努めて老令期へもってゆくようにする消極的方法しかないから、雇傭の長期展望(被申請人会社の定年は五五才である。)はたたない。申請人の左大腿骨の関節面の陥没部並びにその付近の軟骨面の壁の崩れ落ちるが如き脆弱な様相及び変性が肉眼的にもはっきりと著明であるから、病期はかなり進行している。到底安静及び固定によりほぼ治癒するのもあるような初期程度ではありえない。再発が強大な外力により又は外力の累積により避けえないものである以上、歩行自体外力の累積の最たるものであるから、申請人の場合において(早ければ六か月以内にも)再発は不可避である。自覚症状は関節痛(申請人の本症の場合は一〇月三日頃)又は遊離体の関節面間嵌頓による激痛(同じく一〇月一二日頃)であるが、右激痛は突然に発生し、これによって関節運動が抑止され、疼痛のあまり気絶することもあるから、申請人の場合において、もし勤務中に発症したときは、気絶にいたらない場合でも、膝関節運動の抑止により歩行はおろかいっさい動けなくなってその場に横臥して安静を保つほかなく、その場合に同僚、上司又は得意先がこうむる迷惑は大きく、取引上のマイナスの影響も甚しい。軽作業程度の勤務の日常においても、外的状況により瞬間的にはかなり強度の屈伸、捻転を膝関節部位に与えるのをよぎなくされる場合が必然的に発生するものであるが、その場合に申請人の健康に与える害悪はもとより、申請人への配慮が当然のように要請されることによる職場の同僚、上司らの心身の負担は必ずしも小さくはない。このような疾病であることを知悉しながらその雇傭関係を維持するかぎり、被申請人はその従業員の健康管理上の注意義務につき特に申請人に対しては加重されるし、そのために民法、労働基準法もしくは労働安全衛生法上の使用者責任を問われる蓋然性が多くなる虞れは否定できない等々。」である。そして、被申請人は昭和三〇年に設立され、資本金一億円、本社、柏工場及び平塚工場に従業員約二四五名(約七割が工員)を擁して印刷紙器の製造及び販売を専業とする典型的な受注産業会社であり、その営業部は九課約三〇名の陣容で社内随一の事務系部門として被申請人会社業務の中枢を形成していることから、単純な業務に従事する工員以外の事務系及び技術系従業員は早晩同部門の業務歴ないし業務知識の修得が不可欠の要件とされていること、また同部従業員はいわゆる営業マンとして日常業務においては得意先訪問を主体とした受注活動がもっぱら重視され、一日平均三、四社を回り乗物利用のほか一時間半程度の徒歩が必須とされることから、およそ営業マンとしてその活躍に多きを期待しえない欠陥のある者は、営業部勤務が現在たると将来たるとを問わず、被申請人の企業上決定的な負因となることなどをも考えあわせて、被申請人は、同年六月八日に申請人に対し書面をもって「申請人の疾病がいまなお正常な業務に就きうるまでに治癒していないから休職事由はまだ消滅していないし、しかも休職期間満了時にいたっても消滅しないものと判断して、休職期間満了日の翌日である昭和四七年七月一四日の日付の解雇を予告する。」旨の意思表示をするにいたった。以上のように認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はみあたらない。

三  解雇の効力

1  申請人は解雇権の濫用を主張する。

(一)  申請人の病状が一番安定した状態にきていて過激な重労働以外就労可能であり、本社総務部又は柏工場生産管理課の業務に就くことができるにもかかわらず、被申請人は、本社営業部への配転予定を持ち出し、申請人が営業部勤務に耐ええないことを理由にしてその就労を拒否し、ついに本件解雇に及んだのであるが、「外力の累積により再発」を避けることのできない唯一の職場である営業部に申請人を配転することはその健康維持上許されないから、本件解雇は不当であると、申請人は主張する。

たしかに、申請人の症状について、篠原主治医の診断が二月一五日付の「過激な労働は不適当である。」及び意見書中の「二月一六日軽作業より復職可能」から四月一八日付の「過激な重労働以外就労可能である。」へと推移したことはまえにみたとおりである。しかしながら、右にいう「過激な重労働以外の就労」として、本社総務部又は柏工場生産管理課の勤務がこれにあたるとしても、いったい本社営業部勤務が右の「過激な重労働」なのかどうか。また総務部又は生産管理課の業務が右にいう「軽作業」にあたるのかどうか。これらについて断定をくだすだけの資料はみあたらないし、前記二、3の認定に資した疎明資料に本件弁論の全趣旨をあわせると、篠原主治医といえどもよく断定しないところであることがうかがわれる。さらに、営業部をもって「外力の累積により再発」を避けることのできない唯一の職場とする理由も明らかでない。いうところの外力の累積は、申請人の両膝遊離性骨端軟骨炎の病期及び症状にてらして、殆んど不可避とみられる再発の原因をなすものであることが前掲乙第二二号証(主治医の意見書)の記載により明らかであり、申請人の両膝部位における外力の累積自体は総務部又は生産管理課の勤務においても免れうるものではない。そして、前記認定によれば、申請人が営業部の勤務に耐えられないことを理由にその復職が拒否されたのは三月一日の通告であるが、六月八日の解雇予告では、申請人の疾病が被申請人の正常な業務に就きうるまでに治癒していないことを解雇の理由にしており、もはや営業部勤務に耐えうるものかどうかは問題にしていないのである。申請人の右主張は採用しがたい。

(二)  被申請人は、申請人の入社に際して申請人が富士通電子専門学校で電算機関係の専門知識を修得したことを条件として採用し、申請人との労働契約上給付すべき労務を電算機業務及びこれに関連する業務に確定したから、当然に申請人を生産管理課の業務に就かせるべきであり、事実申請人が復職要求をした昭和四七年二月当時において本社総務部又は柏工場生産管理課に申請人を配置することはできたはずであるにもかかわらず、あえて本件解雇の挙に出たと、申請人は主張する。

しかし、≪証拠省略≫によると、本社総務部及び柏工場生産管理課所属の従業員(ただし、課長以上を除く。)は昭和四七年八月当時において総務部に男女各五名、生産管理課に男一〇名しかいないことが認められるから、反対の事情のないかぎり、本件解雇当時においても同部課の人員の伸縮幅はいたって狭隘であったとみるのほかはない。もっとも、≪証拠省略≫によると、昭和四六年一二月に山本及び太田の両名が、また昭和四七年二月に浜田がいずれも新規採用により柏工場生産管理課に配置されたことが認められるけれども、同疎明資料及び弁論の全趣旨によると、柏工場生産管理課は被申請人の業務の概観をもっともよく把握しうる職場として従来から営業及び事務関係担当要員の基礎知識修得の場に利用されていることから、柏工場生産管理課員で電算機業務部門の廃止に伴い本社営業部及び総務部経理課にそれぞれ配転を予定されながら右にいう基礎知識修得のための暫定的に生産管理課に配置されていたものである田中及び浜崎の各営業部及び総務部経理課への配転実施等による補充人事として、右山本、太田及び浜田の新規採用及び配置は人事管理上の当然のコースであり、しかも右採用はいずれも申請人の入院加療中の採用決定にもとづくものであることが認められるから、右山本らの新規採用及び配置がなんらかの意図的人事であるとはいいがたい。ほかに本社総務部又は柏工場生産管理課等の部署に当時の申請人を配置しなければならない業務上の必要性ないし合理性が存し、かつ、それにもかかわらずことさらに右配置を回避したことを肯認するに足りる証拠もない。そして、申請人と被申請人間の雇傭契約上給付すべき労務の特定がないこともすでに認定したとおりである。したがって申請人の右主張も採用しがたい。

(三)  被申請人は復職要求等再三にわたる申請人の要望を全く無視し、総務部又は生産管理課等営業部以外の部署へ申請人を配置することにつき具体的に検討することなく、もっぱら営業部配属を前提として就労拒否・解雇予告を敢えておこなったのであるが、これにはおおよそ労働者に対する最後通告ともいうべき解雇予告をするに際し当然被申請人がとってしかるべき手続上の信義則にのっとった誠意が全く見られないと、申請人は主張する。

しかしながら、前記認定事実(二、3)に≪証拠省略≫を総合すると、申請人は入社してわずか二年間柏工場事務課に勤務しただけであり、ようやく被申請人の業務につき概観を把握し、営業関係担当要員の基礎知識を修得して、被申請人の企業経営上の中枢部門たる営業部においていよいよ大学卒従業員の雇傭条件に適応する勤務に就くことが予定されていた矢先、両膝遊離性骨端軟骨炎の発症によりその必須部門ともいうべき営業部勤務を経歴することが将来においても全く望めなくなって、被申請人企業の人的機構及び管理の経済性に背馳する事態をもたらしたのであるが、右事態の困惑もさることながら、かりに右の経済性に背いて営業部以外に軽作業のポストを予後の申請人のために用意してみたところで、早晩申請人の疾病の再発は殆んど必至であり、その定年までの二三年間において発症、治療、軽快が循環するに伴いそのつど病欠休業をくりかえし、しかも日常の勤務においても絶えず申請人の両膝を庇うように著意を払わなければならないなど申請人の喫緊の養生事項に対応してその健康管理上の措置及び責任がさらに加重されて被申請人の業務の正常の運営が阻害される虞れもあることから、被申請人は本件解雇の予告をするにいたったことを認めることができる。

右認定の事情のもとにおいて、被申請人と申請人間の雇傭関係を解消するか(なお、本件は、まえにみたとおり、業務外の傷病によるものであるが、労働基準法一九条は業務上の傷病による解雇を当然に前提した規定である。)、あるいは軽作業のポストを用意してその雇傭関係を継続するかについて、被申請人は自己の計算においていずれかを選択しうる自由があるものと解するのを相当とするから、被申請人が後者を捨てて前者に趨ったからといって、到底信義則に悖るものとはいいがたい。申請人の右主張もまた首肯しがたいものというべきである。

そうすると、解雇権の濫用については、ほかにこれを肯認するに足りる疎明資料も存しないから、申請人の主張は理由がなく、排斥を免れない。

2  申請人は不当労働行為を主張する。しかし、本件解雇における不当労働行為意思の存在を直接に疎明する資料はなにもない。

ただ申請人の主張する徴憑事実のいくつかについて、以下考察する。

(一)  ≪証拠省略≫によると、申請人は、従業員同僚の接触を通じて労働組合の結成の機運が醸成されてきたので、田中名都夫、会原静雄ら五名の有志とともにその発起人となって昭和四六年七月一五日に東京印刷紙器労働組合結成準備会(前記にいわゆる準備会)を結成し、学習会、自宅訪問等を行なって組織の拡大を図るなど組合結成の準備活動に奔走し、同年九月に準備会内部局として書記局、財政部、渉外部及び情宣部をおき、同年一一月一日に情宣部初めてのビラ「私達の職場のようす」を柏工場内で配付し、ようやく準備会構成員も三〇名ほどに増え、昭和四七年三月五日には一旦組合結成大会を予定するほどの至ったものの後記事情により大会開催を見送り、ついに同年六月七日に組合結成大会を開いて組合の設立を宣言し、同日被申請人にその旨通告したが、この間申請人は準備会において渉外部の責任者となって全印総連東京地連、全国一般千葉地本等の他の労働組合との連絡を引き受け、組合規約の立案作業のほか、会原とともに機関紙「スクラム」の編集を行なうなど入院中の四か月間を除いて組合結成の中心人物の一人として活動し、同年三月五日予定の、及び同年六月七日実施の各組合結成大会のためにそのつど行なったアンケートや実態調査によって準備会構成員らの要求項目を集約し、議案書を作成し、組合結成大会において討論の進行の統括にあたりかつ中央執行委員及び渉外部長の役職に選任されるとともに、比較的年配者でもあることから組合のいわば相談役的地位にあったことが認められる。しかし、本件解雇の経緯は前記認定のとおりであるから、申請人の右組合活動及びその中心的役割の故をもって本件解雇がおこなわれたとみる余地はさらにない。

(二)  申請人が田中及び会原ら五名の有志とともにその発起人となって昭和四六年七月に準備会を発足させて組合の組織拡大に奔走していたことは右(一)にみたとおりであり、同年九月八日午前中に柏工場長高谷総一郎が柏工場応接室に、同日午後六時頃社長中峰弘、総務部長東義之及び高谷工場長が神田の小料理屋「桐半」に、翌日専務北川宏及び高谷工場長が柏工場応接室にそのつど申請人を呼び出して面談したことは当事者間に争いがないところ、≪証拠省略≫によると、高谷工場長ら会社幹部は右三回の面談を通じて申請人及び田中名都夫らを中心とする組合結成の動向などをしきりに探ろうとしていろいろ質問を発し、あるいは経験談めいた説教調の長広舌を揮って婉曲に組合結成の動きを制肘しようと試みるなど、いずれも二時間前後に及んで申請人の当惑も顧みなかったこと、とりわけ中峰社長は酒食の席を藉りて右のような探りを入れるとともに、組合が結成される場合に備えて「組合の上部団体加盟が問題である。」「それは結局は労働組合の自主性をそこなうものではないか。」とか、または「わが社では経営者と従業員という関係ではなく、親子の関係であるという点から、仲良くやっていかなければならない。」とかいって、いわゆる大家族主義を標榜する企業内組合の結成及び運営の在り方を示唆したことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫。右の認定事実に弁論の全趣旨をあわせると、中峰社長以下の右会社幹部の言動は申請人及び右田中ら準備会メンバーの労働組合の結成及び運営に不当に支配介入するものと解すべきである。しかし、右言動における不当労働行為意思の存在をもってただちに本件解雇におけるそれを推断するには足りないというべきである。

(三)  ≪証拠省略≫によると、被申請人は昭和四六年一〇月初旬職場における不満や要求を取り上げるため各職場毎に職制と従業員との職場懇談会を設け、同年一二月二一日に従来被申請人の役員及び従業員全員で組織されていた親睦団体東印会を改組して、被申請人会社役員及び重役をその会員から除外し、特別会員として旅行等のレクリエーション行事に参加するだけの嘱託及び課長代理以上次長以下の役職従業員以外の従業員を本会員とするとともに、東印会の専門部会である生産協議会とは別に、被申請人と東印会会員との間における労働条件や福祉厚生等に関する協議機関として、交渉協議会を設置したことが認められるし、≪証拠省略≫によると、東印会会長栗下節夫は昭和四七年三月五日に申請人に対し、東印会も労働者の交渉団体であるから、申請人らの組合結成により東印会の団結が破壊されることなどを理由としてその組合結成を直ちに中止するように要望する旨の労働組合結成発起人代表あての要望書を手渡したことが認められるけれども、右職場懇談会及び東方会はその設置の趣旨及び目的につき非議されるべき余地はないというべきところ、いずれもその設置の趣旨目的に沿って正常に運営されていることが右の各認定に資した疎明資料により認められるから、両者及び準備会の各機関相互間ときに不協和が生じて運営に阻害をきたしたからといって、ただちに職場懇談会及び東方会の設置・運営につき被申請人の不当労働行為意図を忖度しうるかぎりではないというべきである。

(四)  被申請人が昭和四七年三月四日に田中及び会原に対し同日及び五日の両日間京都市等への出張を命じたことは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によると、準備会は昭和四七年二月中頃から同年三月五日に組合結成大会の開催を予定していたが、中心的な組合活動家である会原と田中の両名が右出張により同日不在となったので組合結成大会を中止せざるを得なかったことが認められるけれども、≪証拠省略≫によると、被申請人はかねてから導入を予定していた新製造技術ゼランド・システムの基本的知識を営業部員に修得させるため他社の類似の設備による研修を計画し、昭和四七年三月三日に営業会議の席上近々見学研修を実施する旨発表したが、その翌朝にいたって見学先の都合で急拠同日と翌五日に見学して欲しい旨の連絡を受けたので直ちに人選に入り、得意先との約束事や緊急の要件がない者のなかから営業部に新たに配属された者を優先させて課長二名並びに会原及び田中を含む課員六名の計八名をして大急ぎで研修に出発させたところ、その際会原、田中の両名は何ら異議を挿むことなく右研修に参加した事情がうかがわれるから、前記開催予定の組合結成大会の中止の原因となった田中及び会原の右出張について同人らの組合結成大会出席を妨げる意図が被申請人にあったとは推認し難く、他に右意図を認めるに足りる証拠はない。

(五)  ほかに本件解雇における被申請人の不当労働行為意思の存在を肯認するに足りる疎明資料はないから、申請人の不当労働行為の主張も理由がない。

3  以上述べた理由により、本件解雇は客観的に合理的な理由が存し社会通念上相当として是認されるものと解すべきであるから、申請人と被申請人との間の雇傭関係は本件解雇の意思表示により昭和四七年七月一四日限り消滅したといわなければならない。

そして、弁論の全趣旨によれば、休職期間にかかる賃金については無給扱いの定めであることが認められるから、前記認定の休職期間にぞくする昭和四七年六月二一日から同年七月一三日までの期間について申請人の賃金請求権が発生するよしもなく、また、右雇傭終了により同年七月一四日以降にかかる申請人の賃金請求権も生じない。

四  結び

よって申請人の本件仮処分申請は、各被保全権利の存在について疎明がなく、かつ、保証をもって右疎明にかえさせることも相当でないので、これを失当として却下することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中川幹郎 裁判官 大喜多啓光 裁判官仙田富士夫は転官したので署名捺印することができない。裁判長裁判官 中川幹郎)

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